体育会の看板もなければ、特別な指導者もいない。
そんな「何者でもなかった」一人の女子大生が、実業団入りを果たし、わずか1年で全国トップクラスのランナーへと成長。
その名は小林香菜。
ランニングサークルからスタートし、自ら道を切り拓いた異色のキャリアは、多くの人に驚きと勇気を与えています。
「環境が整っていないから」「実績がないから」といった常識を覆し、信念と努力で結果を出し続ける小林香菜選手の軌跡には、私たちが学ぶべきヒントが詰まっています。
目次
小林香菜のプロフィール|マラソンで注目を集める実力派ランナー
早稲田大学では競走部ではなくランニングサークルを選び、自由な環境で走る楽しさを追求してきた小林香菜選手。
法学部での学びと市民マラソンへの挑戦を両立させながら、競技への情熱を育んでいきました。
この章では、小林香菜選手の大学時代から実業団を志すまでの歩みを解説します。
学生時代は競争部ではなくサークル所属
小林香菜選手は、早稲田大学入学時に陸上競技への情熱を持ちながらも、競走部ではなく「早稲田ホノルルマラソン完走会(通称ホカン)」というランニングサークルを選びました。
その理由のひとつが、競走部の女子部員が極端に少なく、駅伝に出場できる環境が整っていなかったことです。
また、小林香菜選手自身は、より長い距離に挑戦したいという思いも強く、高校時代の先輩が在籍していたホカンに惹かれて入会しました。
このサークルは、皇居や代々木公園周辺を拠点にした市民ランナー中心の団体で、競技というよりも走ることそのものを楽しむ雰囲気が特徴です。
小林香菜選手も、仲間と共に週末のランやマラソンイベントに参加しながら、次第に走る距離を延ばしていきました。
体育会とは異なる環境ながら、自主的に走ることへの意識と楽しさを育んでいった大学生活の始まりでした。
法学部での学びと市民ランナーとしての成長
早稲田大学では法学部に所属し、将来は国家公務員を目指していました。民法ゼミではディスカッション形式の授業にも取り組み、学問に対しても真剣に向き合っていた時期があります。
一方で、小林香菜選手は「走る楽しさ」を失いたくないという思いから、学業と並行してランニングの活動も継続。
大学2年生になる頃には、週末の皇居ランに加えて、平日も毎朝10kmの自主練を重ねるようになりました。
特に市民大会の出場は年間10回ほどに増え、走る距離やレース経験を着実に積み重ねていきました。
法学部での厳しい学びと、時間をやりくりしながらの練習。
この両立が、後の実業団での精神力や計画性につながっていったのは間違いありません。
実業団入りを決意するまでの葛藤
大学3年生の夏、小林香菜選手は国家公務員のインターンシップに参加し、現場で働く市民ランナーの現実を目の当たりにしました。
試合に出られない繁忙期、練習時間が確保できない業務の重さ。
その姿に触れたことで、「このままでは陸上を中途半端に終えてしまうのでは」という不安が芽生えました。
高校時代に怪我で満足に走れなかった後悔が再び心をよぎり、「もう一度、本気で走ってみたい」という気持ちが高まっていきます。
しかし、競走部に所属しておらず、スカウトの声もない状況での実業団入りは極めて困難。
そんな迷いの中で背中を押したのが、大阪国際女子マラソン2023でした。
小林香菜選手は、ハーフ地点までMGC出場選手と互角に競り合い、2時間36分54秒という自己ベストを記録。
この結果が、自らの可能性を確信させる大きな転機となり、悩み抜いた末に就職活動を断念。
親の反対を押し切ってまで、マラソンに人生を懸けるという大きな決断を下しました。
小林香菜の実業団への挑戦|サークル出身からプロの道を切り拓く
大学ではサークル所属という異色の経歴ながら、実業団選手を目指して自ら道を切り拓いていった小林香菜選手。
スカウトのない立場から挑戦を重ね、ついに大塚製薬への入団を実現します。
実業団の練習に戸惑いながらも、次第に順応していったその姿は、多くの人に勇気を与えるはずです。
この章では、小林香菜選手の実業団入りまでの挑戦を解説します。
スカウトなし、自ら道を開いた就職活動
小林香菜選手は、競走部所属ではないという経歴から、実業団チームからのスカウトを受けることができませんでした。
そのため、自ら行動を起こす必要がありました。
実業団チームの公式サイトにある問い合わせフォームを利用し、応援メッセージに交えて連絡を取ったり、知人を頼って紹介の機会を探したりと、地道なアプローチを繰り返しました。
中には「基準タイムを切れば検討する」というチームや、「採用は難しいが練習見学なら可能」とするところもありましたが、多くのチームでは「サークル出身」という経歴に対して否定的な反応が返ってきました。
「楽しみながら走ってきただけでは?」という色眼鏡にさらされることもあり、何度も心が折れそうになったといいます。
それでも、小林香菜選手は「就活シーズンを捨ててでも走る覚悟を決めたからには、後には引けない」という強い意志で動き続けました。
親からも当初は強く反対されていましたが、それを押し切り、競技者としての道を自ら切り開こうとする姿勢は、実業団入りを果たす以前からすでに“プロの覚悟”を備えていたと言えるでしょう。
大塚製薬との出会いと入団までの経緯
そんななか、小林香菜選手が相談相手として頼ったのが、大塚製薬陸上競技部の河野匡監督でした。
日本陸連の役員でもある河野監督は、競技者のバックグラウンドにとらわれず、その人自身を見て評価する姿勢を持っていました。
小林香菜選手がマラソンにかける強い意志を伝えると、河野監督はまず関東圏の別のチームを紹介してくれましたが、小林香菜選手は「大塚製薬で走りたい」と率直に申し出ました。
ちょうどその少し前、大阪国際女子マラソン2023で2時間36分54秒という好記録を残しており、その走りを見た河野監督は「ハーフまでMGC出場レベルの選手たちと互角に戦えていた」と、小林香菜選手のポテンシャルを高く評価していました。
数々の縁と本人の熱意が実を結び、ついに大学4年生の夏、大塚製薬への入社が内定。
部活経験もスカウトもない、まさに異例の経歴で、念願の実業団入りを果たしました。
チーム合流後のギャップと順応の努力
実業団への内定が決まった後、小林香菜選手は大塚製薬のチーム練習に段階的に参加し始めました。
そこでは、想像を超えるスピード設定や練習の密度、そして体育会的な所作や雰囲気に衝撃を受けたといいます。
特にスピード練習は大学時代にほとんど経験がなく、設定タイムを見て「本当にこのペースで走るんですか?」と思わず尋ねてしまったほどです。
また、合宿では一糸乱れぬチームの行動や、オンオフの切り替えの早さにも圧倒されました。
これまで一人で自主練を続けてきた環境とは全く違い、練習の質だけでなく、集団でのふるまいや精神面の順応にも大きな壁を感じた時期でした。
しかし、小林香菜選手は「自信のある距離走から順応していけばいい」と、焦らず段階的に適応していきました。
少しずつ合宿や合同練習の中で手応えをつかみ、初めての徳島での生活にもなじんでいきます。
この過程こそが、後の急成長の土台となっていきました。
小林香菜のマラソンでの快進撃|急成長の理由とは
実業団入りからわずか1年足らずで全国レベルに駆け上がった小林香菜選手。
その背景には、地道な努力と圧倒的な練習量、そして世界を見据えた高い意識がありました。
大会新記録を打ち立てたレースや日々の取り組みから、その成長の軌跡が浮かび上がります。
この章では、小林香菜選手の快進撃と急成長の理由を解説します。
防府読売マラソンでの大会新記録
小林香菜選手が実業団入り後、最初に大きな注目を集めたのが、2024年12月に出場した防府読売マラソンです。
本来このレースは、翌年の大阪国際女子マラソン2025に向けた“40km走の位置づけ”として調整レースのつもりで臨んでいました。
しかし、当日の小林香菜選手は序盤から快調に飛ばし、予定よりもはるかに速いペースでレースを展開。
30kmを過ぎても余力を感じさせる走りを維持し、最後までペースを大きく落とすことなくゴールへと駆け抜けました。
記録は2時間24分59秒。
このタイムは大会記録を塗り替える快挙であり、小林香菜選手にとっても初めてのサブ25達成でした。
レース後には、大塚製薬の河野匡監督が「この記録が出せれば十分」と話していたほどの水準を、実業団1年目でクリアしたことになります。
この走りは、単なる調整の枠を超え、彼女の可能性が“全国レベルの実力者”へと一段階シフトしたことを印象づける結果となりました。
圧倒的な練習量と“覚悟”の強さ
小林香菜選手の飛躍の背景には、他の選手を圧倒する練習量があります。
実業団に入って以降、月間走行距離は1000kmを超えるのが当たり前になり、多いときには1300kmに達することもありました。
特に11月には高地での事前合宿が行われ、その期間中もハードなメニューをしっかりとこなしています。
元々大学時代から距離を重視した練習をしており、サークル所属ながら月600kmを走っていたという記録が残っています。
こうした背景があるからこそ、急な環境変化にも身体が順応できたとも言えるでしょう。
また、小林香菜選手は「ケガをしたら終わり」と考え、アップやダウン、ジョグにも手を抜かず、徹底して身体のケアを意識しています。
市民ランナーとして自分の限界と向き合ってきた経験が、プロの世界でも通用する土台となりました。
日々の積み重ねを惜しまず、誰よりも自分に厳しく向き合う姿勢こそが、急成長を支える最大の要因です。
世界を見据えた意識の高さと行動力
実業団への道を模索していた段階から、小林香菜選手は「世界で戦える環境かどうか」にこだわりを持っていました。
多くの選手がまずは入りやすいチームを目指すなかで、小林香菜選手は大塚製薬のように世界レベルの選手を育てた実績があるチームを志望。
河野匡監督に直接「ここで走りたい」と申し出たのも、単なる就職ではなく“世界に挑戦する覚悟”があったからです。
入団後もその姿勢は一貫しており、練習では常に自分に課題を与え続け、着実にステップアップしていきました。
練習で通用することと、実戦で結果を出すことは別問題ですが、小林香菜選手はその両方を意識した取り組みを続けています。
「覚悟は決めてきているので」と笑いながら語るその姿には、あらゆる困難を乗り越える強さと、頂点を本気で狙う胆力がにじんでいます。
小林香菜が教えてくれること
小林香菜選手の歩みは、環境や実績に左右されず、自らの意志と努力で道を切り開いた物語です。
「好き」を原動力に挑戦を続け、常識にとらわれず成長を遂げてきた姿勢には、私たちが学ぶべき多くのヒントがあります。
この章では、小林香菜選手が私たちに教えてくれる生き方の本質を解説します。
自分の環境を言い訳にしない強さ
小林香菜選手のキャリアは、決して恵まれた競技環境の中で育まれたものではありません。
競走部という整備されたトレーニング環境にも、経験豊富な指導者のもとにも属さず、大学ではランニングサークルという自由度の高い場を選びました。
練習メニューも自己流、サポートもほぼない中で、小林香菜選手は「今、自分にできる最大限」を常に探しながら走り続けてきました。
他人に頼れない環境は、時に孤独で、心が折れそうになる場面もあったはずです。
それでも「環境を言い訳にせず、自分がどう動くか」という視点を持ち続けたことが、後の実業団入りにつながる道を切り開きました。
この姿勢は、特別な設備や支援がなくとも、意志と行動で限界を突破できることを証明しています。
「好き」を原動力に夢を実現させる姿勢
中学時代、たまたま駅伝の練習に参加したことで長距離走の楽しさに気づいたという小林香菜選手。
その体験から始まったランナー人生は、「もっと走りたい」「もっと長い距離に挑戦したい」という純粋な“好き”という気持ちに導かれて進んできました。
高校での挫折、大学では競技環境に恵まれず、実業団入りにも多くの障壁が立ちはだかるなかで、小林香菜選手は常に「好きだから走る」という感情を忘れずに持ち続けてきました。
モチベーションが下がりそうな時期もありましたが、その都度、自主練や大会出場を通して気持ちを立て直し、ランニングの楽しさを再確認する努力を怠りませんでした。
競技者としての強さだけでなく、走ることへの愛情が、ここまでの成長を支える真の原動力となっています。
マラソン界の常識を変える存在に
体育会系でなければ実業団には入れない、サークル出身では通用しない。
そんな暗黙の“常識”を、小林香菜選手は真っ向から覆してきました。
これまでの陸上界では、トラックでの記録や名門校での実績が重視される傾向が強く、非主流の経歴を持つ選手がトップレベルで活躍するのは極めて稀なことです。
しかし、小林香菜選手は市民ランナーとしてのキャリアからスタートし、練習量と競技への向き合い方だけでその壁を突破しました。
実際に、防府読売マラソンでの大会新記録や大阪国際女子マラソンでの好成績を見れば、背景や所属に関係なく結果を出せることが明らかです。
競技経験に縛られず、誰にでも可能性がある。
そう思わせてくれる小林香菜選手の存在は、これからのマラソン界に新しい価値観をもたらす希望の星と言えるでしょう。
まとめ:異色の経歴で切り拓いた道、小林香菜が見せた可能性
- 小林香菜選手は競走部ではなくサークル出身という異色の経歴を持つ
- スカウトなしの状況から実業団入りを実現し、わずか1年で急成長
- 練習量と信念でマラソン界の常識を打ち破り、世界を視野に入れる存在に
小林香菜選手の歩みは、「環境や肩書きに頼らず、信じた道を貫く」ことの大切さを教えてくれます。
整った条件に恵まれなくとも、自分を信じて努力を重ねれば、どんな壁も乗り越えられる。
小林香菜選手のこれからの挑戦は、マラソン界に新たな風を吹き込むとともに、私たち自身の可能性にも光を当ててくれるはずです。